小説「涙をこえて。」(2)

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小説「涙をこえて。」(1)
「人を好きになることの意味がわからない」と悩む人には、いつもこの小説をおすすめしています。「涙をこえて。」  石井寿平成28年8月27日 土曜日。また、夜になってしまった。「きょうも、おつかれさまでしたーっ」僕は、石井という。職業、気象予報士。明日使うコメントを書き終え、僕は勤め先の「坂の上テレビ」を出た。...

佳子 「こらっ、女の子のこと、ジロジロ見ちゃいけないんだよっ」
僕  「ああっ、失礼しましたっ」

そしてまた、佳子さんは笑ってくれた。
この空気、23年前と、まったく同じだった。

他愛ないことで、怒ってみたり、笑ってみたり。
ただそれだけのことが、高校生みたいなことが、
僕にものすごい幸福感を与えてくれていた。

僕はなんて幸運なんだろう。23年も経って、こんな時間を過ごせるなんて。

いや、神様が、23年前に戻してくれたんだ。
タイムマシンに乗ったみたいなもんだな。
タイムマシンって、あるんだな。
ネコ型ロボットのアニメみたいで、すごいな。
僕は珍しく、しおらしくなっていた。

そして、さらにうれしかったのは、好きなものが異常なくらい、
一致することだった。

佳子さんと一緒に、「好きなもの大全」を並べた結果、
◎ビール◎米◎肉◎スパイス◎にんにく◎ピザ◎オロナミンC
◎昭和歌謡◎大みそか◎紅白歌合戦◎箱根の温泉◎大相撲◎鉄道(首都圏限定)
と、ここに書けるものだけでも、これだけ一致した。

そして、こんなマニアックなことを知っているのは
僕だけだ!と長年思っていたことも、佳子さんは知っていた。

僕  「最近の紅白歌合戦って、若者向けみたいにいわれてますけど、
   それって今に始まったことじゃないんですよね」
佳子 「そうそう。昔はもっと若い人ばかりのことがあったよね」
僕  「え、昔の紅白がもっと若かったって話、知ってるんですか」
佳子 「うん。ひばりさんが司会のときがそうでしょ。
   ひばりさんがそのときの、紅組最年長だったのよね」
僕  「それって、昭和・・・」
佳子 「45年だよね」
僕  「ええ、どうして知っているんですか」
佳子 「それくらい、知っているわよ」
僕  「じゃあ、そのときのひばりさんがいくつだったか、知っていますか」
佳子 「33歳」
僕  「あ、あってます・・・」

最近の紅白は若者向けだ、というのは、最近よく聞く話だが、
実は昔はもっと若かったんですよ、というのは昭和歌謡フリークの僕しか知らない、
秘密事項だったはずだ。

しかも、紅組最年長が美空ひばりさんの33歳というのは、
誰に聞いても出てこない、
僕の得意の数字だった。

ひどい相手になると「ひばりさんって誰ですか」なんて言ってくる世の中なのに、
よくこんなことまで知っているな。
僕は、自分の秘密の世界が侵されたような気がした。

でも、その侵され方が、あまりにもきれいですばらしかったため、
まったく不快に思わず、
むしろ相手を褒め称えないといけないとさえ思った。

ただ、あまりに正面から褒め称えるのは、僕にはまだ耐えられなかったので、
少し混ぜ返して言った。

僕  「いやー、ここまで知ってるって、はっきり言って変態ですよ」
佳子 「いいじゃない、変態で」
僕  「変態がいいんですか(笑)」
佳子 「変態は変態でも、正しい変態ならいいのよ」
僕  「正しい変態、ですか」
佳子 「そう。人に迷惑をかける変態は絶対ダメだけど、
   迷惑をかけずに楽しんでいるのが、正しい変態だと思うのよね。
   正しい変態同士で親しくなるのが、
   一番、当事者にとって幸せなことなんじゃない?
   だって、いいカップルは、みんなどこか、正しい変態同士だもの。
   私は、正しい変態、大好きなの。」

おおっ、正しい変態、いいな、と思った。

また、お互い髪の毛で隠しているけど、実は超絶絶壁頭だったり
(佳子さんの後頭部が三つ編みなのは絶壁を隠すため・・・初めて知ったよ!)、
長距離走るのが苦手だったり、昭和の上司のように、
壊れたテープレコーダーのように、
繰り返し同じことを説教臭く言ったりするのも一緒だった。

そして、何より、言葉をうまく並べて、誰かに伝わったときが最高、
というところも一緒だった。

僕は、放送局に勤める気象予報士として、
佳子さんは、元・雑誌の編集者として。

ここまで合う人は、人生で初めてじゃないか。
僕は、感動し始めていた。

それに、僕の知っていた佳子さんに加えて、知らなかった佳子さん、
でも、ものすごく近い佳子さんが、近くにいる。昭和に親しい佳子さんがいる。

僕はますます感動していた。
そして僕は、この信じられないような幸運が終わらないでほしい、と
こいねがっていた。

しかし、あっという間に時間は過ぎ、佳子さんの次の予定が迫ってきた。

時計を見た佳子さんは、あっさりと
「じゃ、これで」と言って、席を立とうとした。

そこで僕は、用意していた武器を繰り出した。

「あのっ!」と、小さく、鋭く、相手を確実に鷲づかみにする声を出した。
周りの人には、わからないように。

佳子さんは、驚いた様子だったけれど、かまわず、僕は続けた。
さあ、言うぞ。23年前に言えなかった、あの一言を。

「僕、佳子さんのこと、大好きでした!」

僕は予定通り、勇気をもって、口火を切った。まったく予定通りだった。

そして、佳子さんの反応を気にする間もなく、話を続けた。
僕が伝えたかった、23年間伝えられなかった、
ずっとずっと言いたかった、この言葉を。

「早稲田に合格できたのも、母親が亡くなったのを乗り越えられたのも、
全部、全部、佳子さんのおかげです。」

「でも、あのとき、僕が子供で、佳子さんにお礼がちゃんと言えなくて、
 好きであることも、きちんと言えなくて、僕は本当に後悔していました。」

「でも、きょう、代々木に戻ってきて、ここで会えて、
 昔と同じように話せて、同じように笑えて、
 同じ時間が過ごせて、本当にうれしかったです。」

「僕、23年前の忘れ物を、取り戻すことができたみたいで、
僕は、本当に、うれしかったし、楽しかったです。」

「きょうは、本当に、ありがとうございました!」  

頭を下げて、ゆっくり、上げて。
そこで初めて、僕は、佳子さんの顔を、まともに見た。

佳子さんは、目を見開いたままだった。
そして、心なしか、いや、確実に、青ざめていた。

まずい。僕、なんて一方的なことを言ってしまったんだ。
僕の悪い癖だ。
何かに有頂天になってしまったとき、一方的になる。

僕は、ものずこく悔やんだ。何かフォローしなきゃ、と思って、
口を開こうとした。
すると、佳子さんが、先に口を開いた。

「あのね」

「あのね」

「わたしも、石井くんのこと、好きだったんだ。」

・・・いま、何て言った?

僕は、目の前が真っ白になった。
比喩ではなく、本当に真っ白になった。

そして、頭の中には、
NHKがめったに放送しない「臨時ニュース」の開始を告げる、
鉄琴のチャイムが繰り返し鳴り響いた。

「わたし、この人のために何かをやってあげたいって思ったのは、
 石井くんが初めてだった」

「それって、好きってことなんだって、あとでわかったんだけど」

「それに、私は女子中、女子高だったから、
 男の子とどうしたらいいか、あのとき、まだ、わからなかった」

「わかっていたら、もうちょっと違っていたかもね」

「私もきょう、23年前が戻ってきて、うれしかった」

「わたし、この人のことを好きだった」

「ありがとう、うれしかった。」

佳子さんの立て続けの言葉に、僕はひるまず、何かを答えようとした。

僕は、昔から、誰かから何か言われて、言い返せないということはなかった。
以前、坂の上テレビに総理大臣が来て毒づかれたときも、言い返した。

しかしこのとき、佳子さんが、あの佳子さんが、
あまりにも大きなことを言ってくれたので、
僕は、言うべき言葉が見つからなかった。

どうしよう。どうしよう。

情けないことに、言葉の代わりに出てきたのは、涙だった。
僕は両目から、大粒の涙をボロボロこぼしてしまった。

「あ、あの・・・」

それを見た佳子さんは、気を取り直したように、
少しお姉さんらしい笑みを浮かべた。

「ほら、女の子の前で、泣いちゃダメだよ」

そう言って、そっとハンカチを差し出してくれた。

そのハンカチが、強烈だった。

ハンカチからは、予備校で隣の席に座って勉強を教えてくれたときに薫った
あの、佳子さんの匂いが、これでもか、これでもか、というほど、迫ってきた。

全く同じ匂いだった。なつかしく、やさしい匂いだった。

「絶対にこのハンカチを汚してはいけない」

僕はそう固く心に誓い、涙を拭くふりをして、
ハンカチは使わず、下をしばらく向いて
涙が止まるのを待った。

少し経って、ようやく顔を上げた。
すると、驚きの光景が広がっていた。

佳子さんも、滝のように、泣いていた。
僕は、ハンカチをとっさに返した。

僕  「すみません、泣かせてしまって」
佳子 「ううん」
僕  「すみません」
佳子 「・・・」
僕  「あの」
佳子 「わたし、前ね、倒れて、苦しくて、記憶が薄れた時期があったの」
   「というか、正確に言うと、記憶をたどるきっかけを次々忘れてしまって、
    思い出せる思い出が少なくなっていたの」
   「それが苦しいの、悲しいの」
   「でも、この前から、石井くん一生懸命話してくれて、
    私も、少しずつ思い出すきっかけをもらって、思い出して、
    さっきの一言で急にパーンと開けて
    予備校での思い出がぐるぐるって巻き戻されてきたの」
   「思い出が少なくなっていく自分が、ディティールしかない自分が
    わたし、自分が死んでいくみたいで、悲しかった」
   「でも、いま、大事なことを思い出せた」
「私にも、こんな大事な時代があったんだなって」
   「人にやさしくしたり、好きだったりしたころがあったんだって」
「私も、生きていたんだなって」
「ありがとう、石井くん」

僕は、息を飲むばかりだった。
佳子さん、やっぱり、めちゃくちゃ苦しかったんだ。
つらい経験をして、若いころの思い出が思い出せず、苦しんでいたんだ。
この、若く、つややかな風貌からは全く想像できない、
想像を絶する苦しさがあったんだ。
僕はうなだれるばかりだった。

僕  「そんなにつらい思いをしていたって知らずに、申し訳ありませんでした」
佳子 「ううん。いいの。大事なこと、思い出せたから。ありがとう」
   「あたし、若い頃が、帰ってきたような気がして、うれしい」

ようやく、佳子さんに少し笑顔が戻った。
涙ではらした赤い目と、突き抜けるような色白の微笑みと。
よかった。佳子さんが笑ってくれて、うれしかった。
僕はとても、うれしかった。

その後、僕は佳子さんと、代々木駅に向かった。
僕はなるべく、ゆっくり歩いた。

すると、佳子さんはふと、鋭い質問をしてきた。

佳子 「ねえ、もし、私たち、つきあっていたら、どうなってたと思う?」
僕  「うーん…」
   「申し訳ないんですけど、うまくいってなかったと思います。
     僕は子供だったから、どう進めていいかわからなかったと思うし」
佳子 「うん。そうだよね。私も子供だったから、きっとうまくいかないよね」
僕  「でも、恋ってうまくいかないことがあってもいいって、
    きょう、思うことができました。」
   「あと、何年も経って、ようやく日の目を見る恋もあるって、知りました」
佳子 「そうそう。恋は愛とちょっと違うからね」
   「愛にならない恋って、たーくさんあるけど、
    それがきっとどこかで役に立ってるから、
    人生っていいんじゃないかなあって、思う」
僕  「そうなんですか」
佳子 「うん、恋にはだいぶ鍛えられたからね」

僕は、少し考えた上で、少しおどけて言った。

僕  「え、すると佳子さん、そんなにたくさん恋をされたんですか!?」
佳子 「さあーね(笑) 広報を通して聞いてくださーい(笑)」

また、笑った。しかも、私をありったけの上目遣いで見ながら。
僕の身長、178センチなので、佳子さんとの背の差は23センチ。
近くもない、遠くもないこの間。ここに、すばらしい時間が流れていた。

くしくも、再会するまでにかかった年の数と同じ、23。
いいなあ、この距離、この間合い。

すると、佳子さんはちょっと真面目な顔になって、言った。

佳子 「実は私、就職のときに、坂の上テレビが第一志望だったんだよ」
僕  「え、そうだったんですか」
佳子 「でも、1次であっさり落ちて。ミーハーだけだったからね。
    それで志望してない会社に行って転職の繰り返しになったんだけど、
    石井くんが坂の上にいるってわかって、よかった」
僕  「そんな、僕の場合は、たまたま入れただけです」
佳子 「人生って、その、たまたまが大事なんじゃない?」
   「だから、石井くんは、私みたいに
    入りたくて入れなかった人の代わり、なんだよね」
    「代表なんだって思って、がんばってね。」
僕  「はいっ」

こんな話をしていると、すぐ代々木駅のホームに着いてしまった。

僕はここで、佳子さんに連絡先を聞こうかと思った。
最初の電話も、非通知だったし。

でもすぐに、「聞いてはいけない」と思った。

これ以上、親しくなってはいけない、と思ったからだ。
僕には、みわちゃんがいるし。佳子さんには、旦那さんがいるし。

すぐに電車は来てしまった。

僕  「きょうはほんとに、ありがとうございました」
佳子 「いえいえ、こちらこそ。ありがとうございました」
僕  「代々木で出会って、代々木でお別れですね」

僕は、格好つけようとして、そんなことを言ってしまった。
すると、佳子さんは目を伏せた。
僕は、その場を取り繕うようにして言った。

僕  「あ、代々木駅で場面作るなんて、映画の、
     あの、『君の名は。』みたいですね」
佳子 「あは、うん、かっこいいね、あの、」

佳子さんは、何か言いたそうな感じだったけど、
僕が先に次の言葉を言ってしまった。

僕  「これからも、がんばってください」
佳子 「石井くんも」
   「石井くんは私のいきたかった道を生きてるから、がんばってね」
僕  「はいっ」

僕が高校生のように返事をすると、佳子さんを乗せた電車は、ドアが閉まった。

ゆっくりと滑り出す、ステンレスの車体。
僕は代々木駅の長いホームの端まで、佳子さんの電車を追いかけた。

そして、赤いテールランプが見えなくなるまで、
ずっとホームから、電車を見つめていた。

僕、また、泣いてしまう。
いや、泣いちゃいけない。

そういえば、さっき、好きなもの大全を並べたとき、こんな会話があった。

僕  「一番好きな歌って、何ですか」
佳子 「昭和歌謡だから、石井くん知らないよ」
僕  「そんなことないですよ。僕も、昭和歌謡フリークです」
佳子 「へー、じゃあ、知ってる?『涙をこえて』。」
僕  「え!ほんとですか!僕、死ぬほど好きです!」
佳子 「ほんとに?すごーい」

涙をこえていこう、なくした過去に泣くよりは。
つらいことがあっても、涙をこえて。

だから、涙をこえていく。あの歌のとおりじゃないか。
この歌、なんだか最近縁があるなあ。
ああ、昭和ってなんていいんだろう。

そして、僕はまた目を閉じて、夜空を見上げた。
涙をこえて。涙をこえて。

僕は、歩き始めた。

その後、僕はどうやって帰ったのかよく覚えていない。
やや放心状態のまま、家に帰った。

それが、まずかった。

みわちゃんが、気づいた。

僕  「ただいま」
みわ 「お帰りなさい」
みわ 「誰と、会ってた?」
僕  「ああ、高校時代の先輩にね」
みわ 「女性、でしょ」
僕  「…そうだけど」

そこで変な沈黙が流れた。

みわ 「最近、なんか流れが違うのよね」
僕  「流れ?」
みわ 「そう。絶対違う」
僕  「何の流れ?」
みわ 「その女性に、影響されている流れなんじゃない?」

みわちゃんが、真を突いた。

僕  「たしかに、その女性に影響されてるかもね」
みわ 「どんな人なの」
僕  「…話すと長くなる」
みわ 「やましくないの」
僕  「やましくない」
みわ 「ほんとに?」
僕  「ほんとに」
みわ 「…お風呂行ってくるね」

そこで話は終わった。

まあ、いいじゃないか。僕はやましくないんだから。
でも、ちゃんと説明しとくべきかだったかな。
いやいや、でもそれって面倒くさいし。

そこで僕は気づいた。
佳子さんには、面倒くさいことをやるのに、
みわちゃんには、面倒くさいことをしない。

これ、なんでだろう。僕には、まだわからなかった。

やがて、みわちゃんが風呂から上がった。
珍しく、冷蔵庫を開けて、缶ビールを持ってきた。
やくざにプルタブを開けて、ビールを飲んだ。
缶を持ったみわちゃんは、僕におもむろに近づいてきて、言った。

みわ 「石井さんに、話してないことがある」
僕  「何?」

石井さんと呼ばれたのも、久しぶりだった。
そして、話してないことがあるという言葉が刺さってきた。
僕の心は急にざわついた。

みわ 「あたし、結婚していたことがあるんだよね」

は?
今、なんていった?
みわちゃん、そんな話聞いていないよ。

つきあって1年3か月も経つのに、聞いていないよ。
なんでそんな大事な話、黙っていたんだよ。

僕はよほどその言葉を口にしようとしたが、面倒なので、飲み込んだ。
代わりに、最初に頭に浮かんだ言葉を、言った。

僕  「今、なんていった?」
みわ 「だから、結婚していたことがあるんだよねって、言ったの」
僕  「・・・そうなんだ」
みわ 「そう」

僕は次の質問をどうしようか、迷った。
でも、定番のような質問を、した。

僕  「どんな人と、結婚していたの?」
みわ 「高校時代の後輩」
僕  「え、年下?」
みわ 「そう。1学年下。」
僕  「みわちゃんって、年上好きだとばかり思ってたよ」
みわ 「その1学年下の人と別れたから、年下NGになったの」
僕  「そうなんだ」
僕  「いつごろ結婚していたの?」
みわ 「3年前まで」
僕  「え、じゃあ結婚したのは?」
みわ 「7年前」
僕  「じゃあ、20代で結婚して、20代で離婚したってこと?」
みわ 「そう」
僕  「・・・なんで別れたの」
みわ 「向こうが浮気したの。10歳も年上の女とね」

僕には、みわちゃんにそんな波乱万丈の歴史があったなんて、
まったく想像していなかった。

僕  「でも、なんで急に話そうと思ったの?」
みわ 「石井さんが、高校時代の先輩と会っていたって聞いて、
    言わざるを得なくなったなって、思ったの」

そうか。みわちゃんは、自分の歴史と重ね合わせて、
僕が似たような状況になっているのを見て、
秘密を明かすトリガーを引いてしまったのか。
秘密のままにしておいてくれればよかったのに。
僕は勝手なことを思っていた。

みわ  「ごめんね」
僕   「いや、そんな。」

それから、しばらく沈黙が流れた。

みわ  「じゃ、もうきょうは寝るね。おやすみ」

そういって、みわちゃんは立ち上がり、寝室に消えた。

それからというものの、僕とみわちゃんの間には微妙な空気が流れた。
みわちゃんは、佳子さんのことをそれ以上聞いてこなかった。
でも、それがかえって恐かった。
ああ、もう佳子さんのことは忘れよう。そう思っていた。
よかった。佳子さんに連絡先聞かないで。そのときは、そう思っていた。

しかし、僕の思いとは別のところで、話は進行していた。
僕の運命は、ゆっくりと近づいた彗星に、もう、飲み込まれるところだった。

平成29年2月。

みわちゃんとの微妙な日々は、まだ続いている。

別に別れを切り出されるわけではないが、
かといって、居心地のよいことはまったくなく、
僕の世界は、かなり狭くなってしまったような気がした。

みわちゃんは淡々と、そして僕も淡々と生活していた。
お互い、めんどくさくならないように。

さて、きょうは泊まり勤務だ。
天気予報は、こんなにワークライフバランス、
働き方改革を重視する世の中にあっても
やっぱり24時間営業なので、僕は月に1回くらい坂の上テレビに泊まる。

でも、泊まりの後は、気分を切り換えたくなるので、プチ旅行に出かける。
僕のお気に入りは、だんぜん箱根だ。
新宿がホームグラウンドで、箱根はサブグラウンド。
それくらい、箱根にはよく行っている。

子供のころ、父親のやっていた薬屋の組合の保養所に行ったころから
家族ドライブで通い始めた箱根。

それから、大学のときからは、正月に駅伝を見に行くようになった。
天下のケンと呼ぶのにふさわしい、急峻な地形と、美しい場所の数々。
社会人になってからも、箱根好きは変わらない。

特に、硫黄泉が出るところは最高だ。
硫黄のにおいがすると、なぜだか不思議にテンションが上がる。
においに引き寄せられるように、僕は箱根によく行っている。

ちなみに、きょうのみわちゃんは、
仕事が終わったら実家に帰ってお泊りだという。
だいぶ前に通告された。

今、みわちゃんにはちょっと会いたくないが、いないとちょっとさみしい。
泊まり明けで眠い目をこじあけて一人で家にいても仕方がない。

そこで僕は、箱根の峠のてっぺんにある、
硫黄泉のあるところに出かけることにした。
僕はここにたまに行っている。

翌日は休みだから、一泊してのんびり帰ってくることにしよう。
僕はみわちゃんの通告のあとすぐに、てっぺんの硫黄泉の宿に予約を入れた。

平日の午前。

坂の上テレビを出て、新宿駅に向かう。
仕事に向かう人とは逆流して観光地に向かうのはなんだか得した気分だ。

新宿駅で、箱根湯本行きの切符を買い、僕はロマンスカーに乗り込んだ。

昔、小学2年生のときに、母親と一緒に初めて乗ったロマンスカー。

ロマンスカーには、客席まで飲み物を持ってきてくれるサービスがあり、
母親が、オレンジジュースを買ってくれた。
僕はロマンスカーに乗ると、いつもそのことを思い出す。

僕の家は、父親がいつも仕事に行って、留守だった。

母親は、いつも同居していた祖母、つまり姑の目を気にして、
僕と2人で一緒に出かけることなんて、なかった。

出かけるときにはいつも姑がついてくるので、
母親はそのご機嫌伺いに精一杯だった。
時にはうまくいかず、悔し涙を流していた。

ところが、ある日、姑が別の旅行に出かけたため、
母親が、急きょ僕を箱根に日帰り旅行に連れ出した。

そのときに買ってくれたオレンジジュース。
華やかな服のお姉さんが、よそで淹れて、うやうやしく持ってきてくれた。
母親も、すごくおいしそうに飲んでいた。

「おばあちゃんには、内緒だからね」

そう言っていたのが、今も記憶に残っている。
それが、最初で最後の、母親と僕の旅行だった。

15歳のときに、母親は突然亡くなった。
突然の、心筋梗塞。48歳だった。

普通に生きていてくれたら、今、旅行くらい連れて行ったのにな。
普通に生きるって、難しいんだな。

母親の年齢にかなり近づいてきた僕は、
そんなことをきょうも思い、ロマンスカーに乗った。

海外からの観光客が多いためか、平日の午前にしては珍しく満席だった。

中国語や韓国語が入り混じる車内。日本にいるはずなのに、
なぜかアウェー感満載だ。
僕は、切符で指定された窓側の席に座った。

するとほどなくして、白く輝くロマンスカーはミュージックホーンを鳴らして、
新宿駅を出発した。

新宿を出てすぐ、僕の思い出の代々木の予備校があるそばを
ロマンスカーは縫うように一瞬で通り過ぎていく。

そして、代々木八幡の急カーブを通過するころ、
僕の隣の通路側の席の若い女性が
ひとつ前の通路側の席の若い男性とお弁当を分け合いながら食べ始めた。

ひとつ前の席の通路側の男性が、首をこちらに向けて、
後ろにいる若い女性に鶏肉を食べさせていた。

そうか、満席で切符が横並びでとれなかったから、
前後にこの2人は座っているんだな。
前後でも一生懸命コミュニケーションしようとしているんだな。

いいなあ、昭和の新婚旅行みたいだ。

少し感激した僕は、
「もしよければ、僕、席、替わりますよ。
せっかく一緒なんだから、前後じゃなくて、
 隣同士の方がいいでしょう」
と言った。

男性が「え、いいんですか」といい、
女性も「ありがとうございます」と言ってくれた。

僕は喜んで席を変わることにし、荷物を持って、
窓側の席から、ひとつ前の通路側の席に移動した。

ひとつ前の通路側の席に入ったその瞬間、僕は凍りついた。

ひとつ前の窓側の席には、寝息を立てて窓に寄り添うように寝ている
サングラス姿で淡い瑠璃色のワンピースを着た、色白の女性がいた。

サングラスはかけているけれど、
明らかに、明らかに、どう見ても。
あの、これって冗談ですよねと自分に問いかけなければならないくらい
明らかなお姿が、そこにあった。

あの、佳子さんだった。

あの、なぜ、ここにいらっしゃるのですか。
僕にはそれくらいしか頭に言葉が浮かばなかった。
楽しかったはずの箱根旅行は、一気に緊張感満載旅行に変わってしまった。

アウェー感あふれる車内で、緊張感も満載かよ!
僕は、珍しく、大好きなロマンスカーをうらんでしまった。

普通、好きだった女性がいたり、偶然再会した人がいたりすると、
喜びにあふれるものではないかと思う。

しかし、このときの僕には緊張感しかなかった。

この前、代々木で佳子さんに再会したときは、緊張感はたしかにあったものの、
「かわいい」とか「変わらない」とか感激していたのに、
なんでこんなに緊張感ばかりになってしまったのだろう。

僕は、また自分がわからなくなっていた。

もう、降りた方がいいのかも。ちょっと苦しいよ。
ロマンスカーは、次、町田に止まるはずだし。

だいぶ長い時間が経って、ロマンスカーは町田に到着した。
佳子さんは、寝息を立ててままだ。

僕は意を決して立ち上がろうとしたところ、
ひざ掛け代わりにしていた自分の黒いダウンの袖を思い切り踏んでしまい、
その場に転びそうになってしまった。

「あっ」

少し大きな声を出してしまった。
その瞬間、佳子さんが、目を覚ました。
そして、目を丸くしていた。きっと、お互いに。

佳子 「石井くん?」

まずい、見つかっちゃった。

佳子 「どうしてここにいるの?」

それ、こっちの台詞なんですけど。

僕 「あの、泊まり明けでロマンスカーに乗ったら、
佳子さんいて、驚いていました」
佳子「ああ、来てくれたのね。よかった」

佳子さん、何を言っているんですか。きっと寝ぼけているのだろう。

僕 「あの、偶然なんです。僕、最初後ろの席にいて、
席を代わったら佳子さんいて」

僕がそこまで言うと、ロマンスカーは、軽やかに町田を出発した。

うお、降りられなかった。
少しあわてる僕を見て、佳子さんは、目をぱちくりさせた。
クリーム色のショールで、少し口をふさぐようにしてから、
また、僕を見て、笑った。

佳子 「ま、いいじゃない。こんなこともあるのね」
僕  「はい。」
佳子 「のど渇いちゃった。あ、車内販売きた。」

後ろを振り返ると、
ちょうど販売員の女性がワゴンを押して訪ねてくるところだった。

昔のロマンスカーは、別の場所で淹れたオレンジジュースを、
お姉さんがうやうやしく持ってきてくれていたけれど、
つい最近、それが廃止されてワゴンサービスに変わった。

昭和のころにはできていたことも、
今はいろいろな事情の変化でできなくなっているのかもしれない、と思った。

佳子 「すみません、オレンジジュース2つ」

え、オレンジジュース?しかも2つ?

佳子 「せっかくのご縁ですので、石井さんの分も注文させていただきました。」

おどけるように丁寧に言う、佳子さん。

佳子 「私、ロマンスカーのオレンジジュース、昔から好きなのよね。
    パパが昔よく買ってくれたの。
    パパはジュース買わない人だったのに、ここでだけ、買ってくれたの」
僕  「そうなんですか」

僕はまた、驚いた。
母親と一緒に飲んだ、僕にとって思い出のオレンジジュースが、
佳子さんにとっても、思い出のオレンジジュースだなんて。

僕は思わず、母親と飲んだオレンジジュースの話をした。
すると、佳子さんはまた目を丸くして、
「そうなの。似てるね。」と言ってくれた。

テーブルの上に置かれた
キラキラとしたぶ厚いグラスに入ったオレンジジュースに、 
佳子さんとほぼ同時に、ストローをするりとさして、きゅっと一口飲んだ。

佳子 「あー、おいしいね。」
僕  「はい。」

僕も一口飲んだ。ものすごく、おいしかった。
母親と飲んだ昔の日のことが、なぜか急に思い出されてきた。

佳子 「お母さん、きっと、すごく苦労してたんだと思うよ。
    生きてたら、よかったのにね。」

そう言うと、佳子さんは、少し目に涙を浮かべていた。

僕  「そうですね。ありがとうございます。」

僕は、そう言うのが精一杯だった。

窓の外を見ると、
ロマンスカーは海老名と厚木を結ぶ相模大橋のあたりを通過していた。
桜の木が、寒々とした曇り空の下に立っていた。
いきものがかりの「SAKURA」という歌に
小田急線の窓に映る桜、とあったけど、あれかな。
あの歌も切ないよな。

そして、今ここでまた佳子さんに再会してしまった僕も、切ない。
しかも、佳子さんが家族の話をすると、さらに切ない。

そんなことを思っていると、僕も泣きそうになってしまった。
すると、佳子さんは、その雰囲気を察知したようで

佳子 「そういえば、石井くん、どこ行くの?」

と努めて明るく聞いてきた。

僕  「あの、箱根です」
佳子 「あらあ」
   「私も箱根よ」
僕  「箱根好きって、言ってましたよね」
佳子 「そうそう。箱根のてっぺんまで行くのよ。硫黄泉好きで」
僕  「え!箱根のてっぺん? あの、ひょっとして、峠の上ですか?」
佳子 「そうそう、峠の上のホテル。あそこ、私好きなのよ」

好きなものが一致しているというのは、恐ろしいもので、
こんなことがあるのか、と僕は思った。
僕は、もう仕方ないと思い、白状した。

僕  「僕も、峠の上のホテルに行くところなんです」
佳子 「え、そうなの?」
   「ふふ、よかった。」

佳子さんは、ちょっとほっとしたような笑みを浮かべていた。
僕にはそれがよくわからなかった。

僕  「え、よかった?」

僕がそう言うと、佳子さんはわずかに考えるような間を空けた後、
切り返すようにこう言った。

佳子 「だって私、地図が読めない女だから、あそこにバスで行くの苦手でね、
    いつも別のバスに乗っちゃうのよ。石井くんいれば安心ね」

確かに、峠の上のホテルに行くには
箱根湯本からバスを選んで、そして時には乗り換えていかないといけないから、
人によっては、迷うと思う。

僕は、そこにまで行く案内人として喜ばれたことに、
なぜか少し釈然としない思いがあったものの、
まあ、喜ばれないよりかはいいかと思い、
「僕も、うれしいです。」とひとまず答えた。

すると佳子さんは「私も」と言って、
まるで少女のような純情あふれる笑顔を
きらりと横顔で見せた。

僕の胸に、その横顔がきゅきゅっと刺さった。
佳子さんの横顔は、僕が初めて見る横顔で、甘酸っぱい香りがした。
僕の心の中にも、オレンジジュースが注がれたようだった。
そんなふうに、心に染み入ってくる佳子さんを前に、
僕の話せる言葉は、限られていた。

僕 「それにしても、偶然ですね」

そんなありふれた一言を言ってしまった僕に、佳子さんは少し冷たい返事をした。

佳子 「あら、そう?」

僕はその返事が少し冷たかったことと、
かなり意外だったこともあって、少しあわてて言い返した。

僕 「だって、同じ日に、同じ電車で、同じ箱根の、同じホテルに行くなんて、
   おかしいじゃないですか。ありえないって、普通思いますよ」
佳子「そうかな」

佳子さんは、なおも冷たかった。

佳子「よく考えてみたら?だって、石井くん、峠の上に行くのって、珍しいの?」
僕 「いえ、月に1度くらい行ってます」
佳子「土日にも行っているの?」
僕 「いえ、きょうみたいな、平日の、朝だけです。込んでるから」
佳子「私もだいたい同じね。月に1度くらい、平日に行っているんだよ。
   土日は教室が休めないから」
僕 「そうなんですか」
佳子「きょうが何回目くらいの、峠の上?」
僕 「そんな、数えたことないです」
佳子「私も。数え切れないくらい同士なんだから、そのうち一致するのも
   おかしくないんじゃない?」
僕 「うーん、そうなんですか」
佳子「そうそう、ロマンスカーでロマンス!かもね(笑)」

ロマンスカーでロマンス!
なんて昭和なことを言ってくれるんだ。

ちなみに、ロマンスカーという名前は
昭和24年に、映画館に設けられた恋人同士のための2人がけの座席
「ロマンスシート」に似た座席を採用した、ということで付けられたものだ。
そんな古い話を、鉄道好きな僕は、知っている。

いや、ひょっとしたら僕と同じ鉄道好きの佳子さんもこの話を知っているから
こんなことを言ったんじゃないか?
僕はそう思ったが、ロマンスという言葉を口にするのが恥ずかしくて、
聞けなかった。

そんな、あの佳子さんとロマンスだなんて。
僕は少し舞い上がりつつも、混乱する頭も抱えた。
こんなロマンスカー、初めてだ。

何度も乗ったロマンスカーが、
今、まったく知らない世界に連れて行ってくれる乗り物のように、
昔と今を不思議につなぐ乗り物のように、僕は感じていた。

気づくと、ロマンスカーは小田原の駅に着いていた。

小田原は、JR在来線や伊豆箱根鉄道、新幹線も含めて、
14番線までホームがある巨大な駅で、
ロマンスカーは、単線の箱根登山線に乗り入れる前のわずかな休息に入った。

佳子 「石井くんって、どんなときが切り換えになるの?」

佳子さんは、不意に変な質問をしてきた。

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小説「涙をこえて」(3)
僕  「切り換えって、何ですか」佳子 「ほら、ロマンスカーは、登山線に入ると、    一気に周りの雰囲気が変わるでしょ。    そんな場面」僕はつい、「みわちゃんに会う前に、いつも心の切り換えをしています」「切り換えて、心のクサクサがバレないようにするのが大事なので」  みたいな話をしてしまいそうだったが、 すんでのところで、それをやめた。佳子...
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