小説「涙をこえて。」(1)

no title 小説
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「人を好きになることの意味がわからない」と悩む人には、いつもこの小説をおすすめしています。

「涙をこえて。」  石井寿

平成28年8月27日 土曜日。

また、夜になってしまった。

「きょうも、おつかれさまでしたーっ」

僕は、石井という。

職業、気象予報士。

明日使うコメントを書き終え、
僕は勤め先の「坂の上テレビ」を出た。

帰りのバスで、スマホを見るけど、もう飽きた。
世の中は世の中を知りすぎている。つながりすぎている。
やりすぎの世界と付き合うのに、もう疲れた。

「あーあ、毎日つまんねーな。」

僕は昔から、酒と時間と女が存在すれば、それでいいと思っていた。
いま、全部ある。ぴっちりある。
でも、つまんねえ。というか、悲しい。

なんでか?

もう、僕の先はあってないようなものだからだ。
このあと定年まで淡々と会社で仕事をするのだろう。
女とも淡々とやるんだろう。それで僕は死ぬんだよ。

というか、もう死んでるよな。

もう、どうでもいいや。これ以上いいことなんてないし、
女とこのあと結婚したら面倒くさいだけだし、
社会保障はどんどん厳しくなっていくし、
どんどん金を吸い取られておしまいさ。

それに、世の中と共存するのに、もう疲れた。

だって、何でもありすぎる。それだけじゃなく、知りすぎている。
もののありすぎはまだ耐えられるけど、
知りすぎた世の中には、耐えられない。

僕はまた、いつもの嘆きをはじめた。

嘆いたり悩んだりするのは5分まで、と決めているけど、
たまに10分以上かかることがある。

僕って最悪だ。

そんなことを思っていると、バスが最寄りの停留所に着いた。
僕の大事なホームグラウンド、新宿の片隅だ。

僕はバスを降りてずんずん歩いた。

白壁が一見美しい、でも、のっぺらぼうな、マンションに着く。
新しいように見えるけど、実は古い。
昭和のような人間の温かさやぬくもりが、ないからだ。

ここの住人は、誰もあいさつなんてしやしない。

すれ違ってもみんなスマホを覗き込んだままで、
逃げるようにして去っていく。

なんだこれは。

人間としての温かさがない家なんて、
石器時代にもなかったはずだ。
僕は石器時代より前の人間なのかい!

きょうもまた、そんなことを思っている。

しかし、ここからが、僕の本領発揮だ。
切り換えをすばやくして、相手対応仕様に入ろう。

よし。心の切り換えは1秒で済んだ。

家の鍵を開ける。
部屋の奥から、するりと僕のぺっぴんさんが現れる。

身長149センチ。
肩より長く伸ばしたまっすぐな黒髪を、さらりさらりとなびかせながら、
色白の、まだメイクしたままのつややかな表情でのご登場だった。

「おかえりなさあい」

僕の、いわゆる彼女であり、
たぶん結婚するかもしれない同棲相手、みわちゃん。

みわちゃんは、僕より8つ年下だ。
僕が今勤めている会社で、受付をしている。
受付と予報士がなんでつきあっているのかというと、
受付からえらいお客さんを現場に案内してきたみわちゃんが
いっぱい僕に視線をくれたのが始まりだ。

会社の人の話によると、みわちゃんはモテモテで
いろんな男に言い寄られているらしいけど、僕はそんなことは知らない。
そんな情報を知っても仕方がない。情報にあふれてまどわされても仕方がない。

情報を聞いたところで正確かどうかもわからないし、
仮に正確であっても、僕が正確に受け止められるかどうかもわからない。
もう情報が入ってくるのには飽き飽きしている。

だから、みわちゃんがなんで僕に近づいてきたのかも、聞いていない。

それに、つきあっているのは会社では言っていない。

だって、めんどくさいから。
というか、最近つきあっているのもめんどくさいぞ。
こんなんで結婚したらやだなあ。
でも別れるともっとめんどくさいだろうから、やだなあ。

そんなことをおくびにも出さず「みわちゃん、ただいま」と
一応やさしく言っておく。
だってそうしないと、全てがめんどくさいから。

「お風呂、沸いてるよ」

みわちゃんは、やさしい。
みわちゃんは、かわいい。
歌手としてテレビに出ても、おかしくない。

でも、僕はなんだか満足できていない。
というか、最近何が満足なのか、よくわからなくなっている。

そんなことを思いながら、みわちゃんの沸かしてくれた風呂に入る。

いい具合に温まったので、そろそろ出ようと思っていたら、
みわちゃんが、脱衣場にある洗面所に入ってきた。

みわちゃんはそこで、延々と歯磨きを始めた。
さらに、ご丁寧に糸ようじで歯間を磨き始めたようだ。

長いよ。僕、上がれないじゃん。
僕は風呂についている湯沸かし器のリモコンのデジタル時計をじっと見る。

5分たった。

今度は髪をいじり始めたようだ。これが長い。
長い黒髪をいじるのには長い時間がかかるが、それにしても長い。

10分たった。

もう9時40分過ぎたよ。
いい加減にしろ!と、浴槽のお湯をザバッと外にかき出す。

なんでこんなにいらついているのか、自分でもわからないけど、
とにかくいらっとして、いらっとした分だけの水を僕は思いっきりかき出した。

無反応。

もう、いい加減にしろ!
脱衣場にいてもいいから僕は出るぞ!とややセクハラチックなことを思って
思い切って風呂から出ると、脱衣場はもぬけのからだった。

どうやら、僕がザバっとやったときに、彼女は脱衣場から出たようだ。

僕には聞こえなかっただけか。

いったい、なんなんだよ!
僕の怒りはさらに僕の中では増幅したが、僕の外には見えない状態が続いている。
いや、続かせている。

だって、めんどくさいじゃん。

最近、なんでもこれだ。

また、そんなしょうもないことを考えたが、
体を拭いてみわちゃんのところに戻るときには
そんな感情はやはりおくびにも出さないよう、
また本能的にクールな表情をしていた。

みわちゃんはきっと、僕をおとなしい人間だと思っているのだろう。
「彼、怒らないところが便利」って
友達にLINEしているところを見てしまったからな。

さあて、部屋に戻るぞ。

よし。心の切り換えは1秒で済んだ。
部屋に戻ると、みわちゃんがテレビをつけていた。

NHKがついている。ずいぶんにぎやかな番組だ。

画面に「第48回 思い出のメロディー」と書いてあった。
ああ、昭和の名曲を聞かせる番組だ。

ちょうど、北島三郎さんが「風雪ながれ旅」を歌っていた。

僕  「みわちゃん、ずいぶん渋い番組見ているんだね」
みわ 「今、たまたまつけていただけだよ」
 「じゃ、チャンネル変えるね」
僕  「うん」

そう言った瞬間だった。

「風雪ながれ旅」が終わって、萩本欽一さんが出てきた。
ザ・昭和のタレントだ。

そして、司会の女優さんにうながされて、萩本さんが
「それでは、ドーンといって、みよう!」と言ったのだ。

「ドーンといって、みよう!」

なんなんだ、これは。あまりにもまっすぐだな。
スッキリするようなこと、言ってくれるな。
昭和だ昭和だ。戦後だ戦後だ。

僕はちょっと面白かったので、リモコンに手を伸ばしたみわちゃんに
「ちょっと待って」と言った。

僕  「どうせもう終わるんだから、もうちょっと見る」
みわ 「変なの」

みわちゃんに「変なの」と言われて、
僕はちょっとだけ気持ちにさざなみが立ったが、
その次の瞬間、もっと大きな波に襲われた。

あの歌が、始まったからだ。
往年の名歌手が舞台に勢ぞろいして、
あの歌を、最後の全員合唱として歌い始めた。

「涙をこえて」。

僕が大好きな、歌だった。
最近、そういえばずっと聞いていなかったけど、この歌、あったなあ。

この歌は、昭和44年に作られた歌だ。バリバリ昭和元禄時代の歌だ。

それなのに、平成生まれのJ-POPのように、AメロからBメロへの転換が明確だ。
昭和最後の年にこの歌に出会った僕は、
まだJ-POPなんて聞いたことがない世界の、中学生坊主だった。

そのときに聞いた、このAメロBメロを駆使した歌の鮮烈さ。
初めてゾクゾクした、AメロBメロの感覚。
Bメロが司令塔のようになって、サビにつないでいく。

そして、平成のJ-POPみたいなのに、
昭和40年代の希望あふれるルンルン社会、
輝く明日を信じる社会が、
これでもかというくらい、明るく歌われている。

なんなんだこの歌は。昭和と平成をつないでいる奇跡のカスガイなんじゃないか。

そんなことを思っていると、サビの後に、メロディーのキーがぐっと上がった。
僕はさらに、ゾクゾクした。
なんだろう、この感覚。僕は、どうしていいかわからなかった。

みわ 「ほら、チャンネル変えるよ」
僕  「あ、ごめん」

ちょっと放心状態だった僕に、わけのわからないみわちゃんが冷や水を浴びせ、
僕はほんの一瞬の昭和から、正気を取り戻した。

この日の「涙をこえて」から、
ゆっくりと近づく美しい彗星に、ひそやかに飲み込まれるように、
僕の運命は、動き出していった。

平成29年1月。

新年早々、手帳を落としてしまった。

幸い、年が始まったばかりで中身は何も書いておらず、
書いてあったのは僕の名前と携帯の番号だけだった。

僕は、あまり気にすることもなく、
また気象庁の本屋に行って買えばいいか、と思っていた。

ところが、数日後の夜。家にいたところ、携帯が鳴った。
みわちゃんは、ヨガの教室の新年会だそうで、いない。

携帯を見ると、番号非通知だった。
坂の上テレビは電話交換機が古いか何かで、
いつもかかってくる電話は非通知だ。

「予報、しくじったかな。呼び出しかも。」と思い、電話に出た。

すると、女の人の声がした。

「あのう、石井さんの携帯ですか」というのが、
記念すべき第一声だった。

僕 「はい」
女性「あのう、手帳をバスで拾ったんですけど。」
僕 「あ、そうなんですか。ありがとうございます。」

ずいぶん親切な、でも、変わった人だと思った。

僕だったら、仮に手帳を拾っても、
バスの運転手か交番に届けるくらいしか、しないだろう。

なんでこの人、わざわざ電話かけてきたんだ?
その理由は、ずいぶん後にならないと判明しないので、とりあえず話を続ける。

僕 「そしたら、お手数なんですが、
最寄りの交番にでも届けていただけると助かります。
   どちらの交番が近いですか」
女性「えっと、中野坂上ですね」
僕 「ありがとうございます。お時間あるときで結構ですので」

中野坂上だったら、新宿の僕の家から、わりと近い。歩いても行ける。
僕は珍しいことに、ありがたいな、と思って話を聞いていた。

女性に名前を聞くと、田中さん。ありふれた名字だねえ。
めんどくさくなくていいや。

ここまでの僕は、淡々と考えていた。

しかし、次の瞬間、僕は急に、悪寒がするような感じがした。
突然インフルエンザにかかったような、あの悪寒だ。
記憶のどん底から突然湧き出る、妙な感覚を覚えた。

何だろう。

意外にも、それは、わりとすぐにわかった。

「この人の声、聞いたことある」

少し甘く、かすかにかすれた声。
ひょっとして、もしかして、あの人じゃないか。

いやいや、まさかそんな。そんなことあり得ない。映画じゃないんだから。
それに、名前違うし。

女性「では、近いうちに中野坂上駅前の交番に、届けておきます。
   失礼しました--」

電話が切られようとした。

まずい!ここで言わないと、僕、また後悔する。
僕は、意を決した。珍しく、めんどくさい方に。

僕 「ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください」
女性「…何ですか?」

女性は、不信感をたたえた声で応えた。

僕 「あのう、大変失礼ですが、間違っていたら申し訳ないんですが、
   ひょっとして、もしかして、
   田中さんって、池田さんじゃないですか?」

僕は、祈るような気持ちで、話を持ち出した。女性は3秒黙った。
放送事故か?と思えるくらい、長い間だった。

しかし、間があけた後は、事故ではなかった。

女性「…そうですけど。」

僕は声を大にして言った。

僕 「あの、私、予備校でお世話になった、石井です!」

ここで、少し、僕の過去の説明をしなければならない。

僕は、高校受験で早稲田大学の付属校に2つとも落ちて、
東京六大学の別の大学の付属校に通っていた。

でも、早稲田大学にどうしても行きたくて、
高校3年のとき、代々木にある予備校に通っていた。
平成5年のことだった。

そこには、早稲田大学に合格した先輩で、
後輩の高校生の面倒を見るチューターというアルバイトがいた。

そのチューターの1人が、池田佳子さんだった。

佳子さんは、僕に早稲田大学に入るための勉強法をいろいろ教えてくれた。
そして、できの悪かった僕を何とかしようとしてくれた。

ものすごく色白で、肩を少し追い越すくらいの黒髪。きりりとしたまなざし。
凛とした表情で、気品のあるたたずまい。

女子御三家といわれる名門の高校の出だけど、
それをあまり感じさせない快活さと
同居するつつましさ。
そして、かわいい笑顔と、細やかな面倒見のよさ。

どれをとっても、落ちこぼれの男子高の生徒だった僕が
見たことのない世界の人だった。
僕の中で、最高のプリンセスだった。

「私がなんとかしてあげるから。」

佳子さんのやさしさは、15歳で突然母親を亡くした僕の心に、
深く、深く、染み入った。

そして、佳子さんのことを、すごく好きになった。
僕は、佳子さんと同じ大学に入るためにがんばろう、と思うようになった。
   
予備校に行くのも、やがて佳子さんに会いに行くが目的になり、
一日中佳子さんのことを考えて、「僕、毒されている」と思うほどだった。

でも、それがものすごく心地よかった。

それに僕は、高校3年の途中から学校に全く行かずに、グレていた、
どうしようもない高校生だった。

でも、佳子さんがいてくれたおかげで、偏差値50以下だった僕が
最後には1日18時間勉強した。

あれだけ「勉強しろ、勉強しろ」とうるさく言っていた父親が
「お前は勉強のしすぎだ。おかしいぞ。」と青くなっているのを見て、
僕の方が驚いた。

そして、佳子さんに抱きしめてもらった
湯島天神の青いお守りを持って入試に臨み、
ついに、佳子さんと同じ早稲田大学に合格した。

平成6年の春だった。

合格したら告白しようと思っていたので、
佳子さんにいよいよ「好きです」と言おうと思った。

しかし、当時は携帯などない時代で連絡もうまくとれず、
僕もヘタレだったので、せっかく同じ大学に入ったのに、
その後会えたのは、大学1年の5月にすれ違った1回だけで、
ほとんど何も話せなかった。

初夏の強い日差しのもと、白っぽいワンピースがかわいかった、佳子さん。
その姿を見て以来、関係はぷっつりと途切れたままだ。

それが、今、23年のときを越えて、電話口の向こうに、佳子さんがいる。
僕は、必死に、笑ってしまうくらい必死に、熱っぽく話しかけた。

「あのう、覚えていますか」

しかし、佳子さんの返事は、とても残酷なものだった。

佳子  「申し訳ないんですけど、覚えていません…」

がーん。悲しくて、胸が落ちる。
うーん、でも、そりゃ、そうだわな。僕が一方的に好きだっただけなんだから。

しかし、僕はあきらめない。あきらめて、なるものか。
僕は覚えているエピソードを次々と話しはじめた。

粘ること数分間。

僕 「あの、私、一番前の席にいつも座っていて・・・」

そこで、佳子さんが不思議な間合いで黙った。
いまだ、ここだ。僕は、たたみかけるように話した。

僕 「授業前にいつも、僕の隣に座ってくれて、ノート見てくれましたよね!」

僕はいつも、チューターの佳子さんが勉強を見に、
隣の席に座ってくれる瞬間が、ものすごく、ものすごく楽しみだった。

かすかに薫る、ものすごくいい匂い。
その一瞬のために、僕は隣の席に絶対に誰も座らないよう
荷物を置いたりしていた。
ほんとに、しょうもない高校生だった。

佳子 「ああー・・・少し思い出した」

僕は、ほっとした。
よかった、佳子さんが思い出してくれた。

それから、ぽつりぽつりと、いろいろな話が出てきた。
まだ、川水からわずかな砂金をすくい出すような、
ぽつりぽつりとした話だった。

しかし、どんな川水も、ぽつりぽつりとした雨からすべては始まる。
やがてこれが、大きなうねりをもたらす大河の一滴になるかもしれない。
僕はそう信じて、珍しく、面倒くさくも、丁寧に、熱っぽく話を進めた。

そしてしばらく話すと、佳子さんも少し打ち解けた。
僕は、すっかりうれしくなっていた。

女の子に話をするなんて、聞くなんて、面倒くさいだけだったのにな。
なんでこんなに心地いいのだろう。僕はよくわからなかった。

そんなわからなくなっている僕の、不意を突くように、
佳子さんは、さらにうれしいことを言ってくれた。

佳子 「じゃあ、せっかくだから、手帳返すついでにお茶でもしようか。」
僕  「ええ!いいんですか!!
   えっと、そしたら、あの、代々木のバーガーでお願いします!」
佳子 「ええ!?」

代々木のバーガーというのは、
予備校のそばにある、とても古いハンバーガー専門店のことだ。
僕はそこで、佳子さんとデートをするのを、いつも妄想していた。

その夢をかなえるチャンスが、23年も経ってから、やってきたのだ。

もちろん、最初に彼女が名乗ったとおり、
名字が変わっているということは結婚しているということなので
デートではないけれども、まあ、それはともかくとして、
昔ずっと夢だったことが、どんな形であれ、
かなうのはとてもうれしいことだった。

僕 「僕、佳子さんと、代々木のバーガーで会うのが夢だったんで」
佳子「そうなんだ(笑)子供だねえ(笑)」

笑われたが、僕はまったくかまわなかった。
そして日時を約束して、電話は切れそうになった。

佳子「あ、そうだ。私ブログやってるの。
『佳子 クールジャパン』で検索してみて」
僕 「そうなんですか!見てみます!ありがとうございました!」

これで電話は終わった。
でも、何かすごいことの始まりのような気がした。

うほほーい。うれしくて、胸が鳴る。
こんなことがあるんだなあ。僕はこの幸運に有頂天だった。

すると、玄関でガチャリと鍵の音がした。
みわちゃんだ。
僕は、いつもの心の切り換えをせずに玄関に向かった。
だって、気持ちがプラスなんだから。熱いんだから。
いつ以来だろう、この感覚。

僕  「おかえりっ」
みわ 「ただいまー もう新年会なのにタラタラタラタラ愚痴る奴がいてさー
    うるさいんだよねー あたし関係ないのにー」

みわちゃんは僕の気持ちの切り換えなしなんて、まったく気づいていない。
当たり前か。
そして、みわちゃん得意の、どうでもいい愚痴が始まった。
これ、始まると長いんだよな。
でも、今の僕はその愚痴がまるで昔の歌謡曲を聴くように
するすると耳に入ってきた。

僕  「大変だったね」
みわ 「そーなのよ だって新年会なのに」

また同じ話が始まった。みわちゃん、同じことを繰り返し繰り返し、
よくしゃべるねえ。

でも、それでもいいや。この夜の僕は、かつてないほど寛容だった。
ひとしきり話が終わった。

僕  「あ、じゃあ、お風呂行ってくれば」
みわ 「ありがと」

僕は、みわちゃんを早く風呂に送り出して一人になりたかった。
しかし、ふいに、みわちゃんが止まって、振り返った。

みわ 「なんか、いいことあった?」
僕  「別に」
みわ 「ふうん」
僕  「なんで」
みわ 「流れが違っていたから」
僕  「流れ?」
みわ 「あー めんどくさいね。なんでもない」

よく分からないことを言いながら、みわちゃんが、風呂に消えた。
よかった。さあ、見るぞ。

僕は一目散にパソコンに向かい、
佳子さんが教えてくれたブログを早速見ようと、
ネット検索をかけた。

ブログはすぐに、見つかった。さあ、1ページ目からしっかり読むぞ!

しかし、そのブログを見て、僕は愕然とした。

「え?」

その内容は、あまりにもひどく、想像を絶する世界が広がっていた。

すると、今度は背後から、想像を絶する声がした。

みわ 「ちょっと!」
僕  「な、なに?」

みわ 「お風呂入れてないでしょ!浴槽が空よ!」
僕  「ああー、ごめんごめん」

僕は一気に、現実に引き戻された。みわちゃん怒ってる。
そらそうだよな、裸になって風呂に入ったら浴槽、空だもんな。

佳子さんから電話がかかってきて、すっかり舞い上がっていた僕は、
風呂を入れるのさえ、忘れていた。みわちゃんに丁寧に謝った。

そして、数時間後。
風呂を済ませ、機嫌が悪かったみわちゃんが寝静まり、
ようやく、僕はブログと真剣に向き合えた。

佳子さんのブログの内容は、およそ以下のとおりだった。

▼就職活動に失敗。大学卒業後、
 塾関連の会社に就職したものの、合わずに1年足らずで退職。
▼以降、転職を繰り返す状態が続く。
▼4社目が超ブラック企業のマスコミ。1週間家に帰れない状況が頻繁に続く。
 風呂と寝床はいつも健康ランド。
▼上司のパワハラを受ける。ストレスがたまり、酒が手放せなくなる。
▼やがて酒量が増える。ビールを毎日3リットル飲むようになる。
▼ついに倒れる。以降、医者から働くなと言われる。社会に復帰するのが困難に。

なんだ、これは。

僕は、この23年間、ずっと勝手な妄想をしていて、
「お嬢様の佳子さんは、きっとノホホンと仕事をして
 誰かと結婚して、順調に、幸せに暮らしているに違いない」
と思い込んでいた。

「誰かと結婚して」の部分だけは合っていたけれど、
それ以外はひどい話ばかりだ。

「こんなにひどい状況で、佳子さんに会っていいんだろうか」
「ひょっとして、今は会わないでほしいと思って、
あえてブログを教えたんじゃないか」
と思い、僕は一瞬、ためらった。

しかし、こんな偶然で、せっかく会ってくれるというのに
会わないとあまりにもったいないし、
会って励ましてあげることもできるのではないか、と思い、
やはり会いに行こうと思った。

どれだけ苦労を重ねたんだろう。
僕は、長年そこに思いを致せなかったことを、悔やんだ。

白髪だらけなのかもしれない。風貌がまるで変わっているかもしれない。
でも、それでもいい。あの一言が、言いたい。僕、もう、後悔したくない。
やっぱり、会ってみたいと思った。

でも、ずいぶん面倒なことになるかもしれないな。
行くのだって面倒のような気がするし。

ん?
でも、よく考えたら、あまり面倒って感じがしないな。変なの。
僕が、僕じゃないみたいだ。あんなに面倒が嫌いだったのに。
僕は、自問自答をするようになってしまった。

まあいいや。とにかく行ってみよう。
そう思って、日々が過ぎるのを身を低くして、待った。

そして、佳子さんに会う日をいよいよ迎えた。
僕は定刻の30分以上前に、代々木のバーガーの前に着き、
佳子さんを待った。

普段なら、5分ももったいないのにな。
なんでこんなに早く足が向いたのだろう。
僕にはよくわからない。

ものすごく長い時間が経ち、ようやく定刻になった。

定刻になった瞬間、
後ろから、あの、少し甘く、ややかすれた声がはっきりと聞こえた。

「石井くん。」

僕は、満を持して振り返った。
すると、そこには、まったく信じられない光景が広がっていた。

あの、あの、あの、佳子さんだ。
そこにいたのは、昔とほとんど変わらない、あの、佳子さんだった。

身長155センチ。髪も当時とまったく同じで、
やや細く編んだ三つ編みの黒髪を、
後頭部にアップにしてラインを作っていた。

か、かわいい。ほんとに、変わってない!

佳子さんは、42歳のはずだ。
しかし、どう見ても、どう厳しく見ても、
40代、30代には見えず、
20代の風貌だった。

「30代に見える40代」はいるけれど、
「20代に見える40代」はめったにいない。

まるで、沖縄で雪が降るようなものだ。
沖縄での雪の観測は、明治以来の長い歴史の中でも、2度しかない。

しかも、ブログと違って、ものすごく元気そうだった。
そして、僕が振り返った瞬間に見せてくれた、
これでもかという、気品のある、突き抜けるような笑顔。
僕の心の中に、雲ひとつない青空が広がった。

と同時に、僕はすっかり混乱し、動揺していた。

僕 「あ、あのう、そのう、お久しぶりです」
佳子「はい。」
僕 「ずいぶん元気そうで、びっくりしました」
佳子「びっくり?」
僕 「はい。ブログにずいぶんつらい話が書いてあったんで」
佳子「ああ、石井くん、あのブログ、最後まで読まなかったの?」
僕 「え、続きがあるんですか」
佳子「そう。そこには書いてあるんだけど、
   私、働けなくなってしばらくしてから、ダンスを始めて、
   それですっかり元気になって、
   今、坂の上テレビのそばでダンスを教えているの」
僕 「ええ!坂の上テレビ!?」
佳子「予備校でも言ったでしょ。問題文は最後まで読まないと、ねっ(笑)」

佳子さんは、高校生を諭すような顔をしたあと、得意気に笑った。
そうか、ダンスを始めて元気になって、仕事で毎日ダンスにいそしんでいるから
昔と同じような風貌なのか。

一本とられた。

それに、僕が今いる坂の上テレビのそばで働いているなんて、
なんて灯台もと暗しなんだ、と思った。

あと、最初の電話で言っていたとおり、家が中野坂上に近いってことは、
たぶん僕が通勤に使っているバスと同じバスに乗っているんだな。
道理でバスで手帳を拾うはずだ。世間は狭いなあ、と思った。

そして、店に入った。
やや奥の、2人がけの、斜めになっている、目立たない席に着いた。

すると、佳子さんは、するりとコートを脱ぎ始めた。
イギリスの有名なブランドのコートだった。

身長155センチの佳子さんは、体にまとわりつくようなコートのベルトを緩め、
腰を少し回し、ベールを脱いだ。

「えっ」

僕は、コートから身を放たれた佳子さんを見て、唖然とした。

コートを脱いだ佳子さんが着ていたのは、
季節外れにもほどがある、白っぽいワンピースだった。

僕が大学に入って、最後に佳子さんと会ったときと、きっと同じ服だ。
スタイルもまったく変わってない。

なんで、この真冬に、こんな白いワンピースを着ているのか、
僕にはわからなかったし、
ファッションセンスにうるさいみわちゃんが見ていたら、
間違いなく軽蔑しただろう。

それでも今の僕には、そんなことは関係ない。
昔と同じ服ということで、ますますテンションが上がった。

それに、せっかくの機会だったので、僕は、佳子さんといろいろ話をした。
仕事のこと、世の中のこと、ダンスのこと。

そして、気になったことも聞いた。

僕  「どうして、手帳拾ったとき、電話くれたんですか?」
佳子 「ああ、手帳に気象予報士って書いてあったでしょ。
    私、気象予報士さん大好きなの。
    あと、坂の上テレビのしおりが挟んであったでしょ。
    私、坂の上テレビよく見てるのよ。昔から、テレビ局大好きで。
    要はミーハーなの。
    ミーハーだったから、予報士とテレビの2つにひっかかって、
    電話してみたのね」
僕  「へー、じゃあそうじゃなかったら、電話しなかったってことですか」
佳子 「たぶん(笑)」

ひどいなあ、と言いながら、僕も、笑った。
そして、佳子さんの顔を見た。
本当に、23年前とほとんど変わらない。
強いて言えば、目元のシワが1本増えたかどうか。

しかも、あまりメイクしてないんだけど。
この人、ベースの色白で、どこまで行くつもりなんだ?

それに、もしかして、佳子さんのこの顔は、
ファンデーションなしで、コンシーラーだけなのか?

美魔女っているけど、佳子さんは、違う。美少女だ。

ほんとに佳子さん、42歳か?ちょっと、ちょっと、おかしくないか?
ひょっとしたら、化け物か?

そんな余計なこと、失礼極まりないことを考えながら、
あまりにもジロジロ佳子さんを見たので、佳子さんは急に怒りだした。

no title
小説「涙をこえて。」(2)
佳子 「こらっ、女の子のこと、ジロジロ見ちゃいけないんだよっ」僕  「ああっ、失礼しましたっ」そしてまた、佳子さんは笑ってくれた。この空気、23年前と、まったく同じだった。他愛ないことで、怒ってみたり、笑ってみたり。ただそれだけのことが、高校生みたいなことが、僕にものすごい幸福感を与えてくれていた。僕はなんて幸運なんだろう。23年も経って、...
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